私が長年の夢だった小さなビストロをオープンしたのは、3年前の春のことでした。こだわりの料理とアットホームな雰囲気が受け入れられ、店はすぐに常連客で賑わうようになりました。順風満帆。私は、自分の成功を信じて疑いませんでした。その年の夏、厨房の隅で、小さな黒い虫が飛んでいるのを初めて見つけました。コバエです。まあ、夏だし仕方ないか、と市販の殺虫スプレーを吹きかけ、その場はやり過ごしました。しかし、数日後、その数は明らかに増えていました。私は、見栄えの悪い粘着シートや捕獲器を店に置きたくなくて、「営業が終わったら、しっかり掃除すればいい」と、問題を先送りにし続けました。それが、すべての終わりの始まりでした。ある金曜日の夜、店は満席でした。常連のカップルが、記念日のお祝いで、私のスペシャリテであるブイヤベースを注文してくれました。私は腕によりをかけてスープを仕上げ、テーブルへ運びました。その時です。女性客が「あっ」と小さな悲鳴を上げました。彼女が指差したスープ皿の中には、一匹の小さなコバエが、無残な姿で浮いていたのです。場の空気は一瞬で凍りつきました。私は平謝りに謝りましたが、二人の記念日は台無しです。そして、悪夢はその翌日にやってきました。その女性客が、料理の写真と共に、事の顛末をSNSに投稿したのです。「お気に入りの店だったのに、スープに虫が。衛生管理どうなってるの?」。その投稿は、瞬く間に拡散しました。店の電話には予約キャンセルの連絡が殺到し、週末の客足はぱったりと途絶えました。追い打ちをかけるように、数日後には保健所の査察が入り、厨房の衛生状態の改善を指導されました。私は、慌てて専門の駆除業者に依頼しましたが、時すでに遅し。一度失った信頼を取り戻すことは、できませんでした。客足が戻ることはなく、私は、オープンからわずか一年半で、夢だった自分の店を閉めることになったのです。たかがコバエ一匹。あの時、そう甘く見ていた自分を、私は今でも呪い続けています。
小さな虫が店を潰したある夏の日の話